由緒:
屋久島と種子島が多禰国であった8世紀から9世紀初頭、その多禰国の一宮とされていたのが当社です。
延喜式神名帳に記載されている神社の中では最も南に位置し、海幸山幸神話に登場する山幸彦である天津日高彦火々出見命を主祭神とし、天津日高彦火々出見命と関わりの多い神を配祀神としています。
当社が鎮座する屋久島は戦国時代、種子島氏の所領となりました。
そして種子島氏が法華宗を重視したことから徐々に衰微して行き、その後所在がわからなくなってしまいます。
しかし江戸時代に入ると屋久島は薩摩藩領となり、町田孫七忠以という薩摩藩士が宰領として赴任してきました。
この時町田孫七忠以は当社の荒廃ぶりを嘆き、わからなくなっていた所在を見つけだし、そして1685年(貞享2年)に社殿を再建しました。
再建されたもののこの時点ではもうすでに古記も失われており、天津日高彦火々出見命以外にどのような祭神を祀っていたのかわからなかったことから、最終的には天津日高彦火々出見命に関わりの多い神を改めて配祀神として祀りました。
自然保護の観点から昭和の終わりごろには廃れてしまい、今では残っていませんが、岳参りという春秋の彼岸に御岳に登り、シャクナゲの枝を持って帰ると言った風習がありました。