由緒:
元は宇多天王(在位887~897年)の離宮である鳥養院の所在地であった大字上鳥飼にその当時より小祠が鎮斎されており、その地より水流によって現在の地(大字鳥飼西)に流れ着たと考えられています。当社は淀川流域の水害の多い地域で詳しいことが不明になっています。
また『摂津名所図会』においては「鳥飼西邑にあり。此の地五ヶ村の産土神なり。例祭九月九日。山州藤杜崇道神敬天皇を勧請せり」と記述があり、舎人親王を京都藤森神社より勧請したとされています。
現神社の形態が出来たのは天正五(1577)年で、本殿は寛文四(1664)年の建立。
明治5年(1872年)には郷社に列し、明治40年(1907年)、神饌幣帛料供進社に指定されました。
明治41年(1908年)に鳥飼西の三本松天神社、鳥飼中の道祖神社、鳥飼上の若宮神社を合祀。
翌々年の明治43年(1910年)、新在家の村社八幡宮を合祀、鳥飼八町の稲荷神社、鳥飼野々の稲荷神社を末社の稲荷神社に合祀しました。