由緒:
時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰、そして市民の安全祈願および武道の練成のために建立したのがここ、矢崎稲荷神社です。
当社は京都の三十三間堂にならって建立されているほか、守護神として京都の稲荷大明神を勧誘しており、ちょうど場所が的の先にあたっていたので、矢崎稲荷と名づけられました。
そのため当社では倉稲魂命(うかのみたまのみこと) と、福禄寿をお祀りしており、そのご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼大師によって寄進されたものです。
三十三間堂では「通し矢」と呼ばれる弓の射技練成が行われ、江戸市民にも観覧が許されていました。
この通し矢とは先人に勝てば堂に掲額でき、それは武士のとしての名誉とされ、大いに流行りました。
創建以来人々の信頼を篤くしてきた当社でしたが、1698年(元禄11年)9月6日、浅草を中心とした大火によって焼失してしまいました。
それにより深川に移転を命じられたものの、信仰心の篤い町民の希望により、当地の産土神として再建が許されました。
後に関東大震災や東京大空襲など、数多くの困難に直面してきましたが、いずれも難を潜り抜け、今に至ります。