由緒:
嵯峨天皇が西暦822年に当地に御行幸の際、御殿を構え一宿された事に由来します。
そうした縁から嵯峨天皇崩御の後に、皇子、源融公が追悼の為に嵯峨天皇をお祀りする社殿を当地に創建(西暦843年)し、天皇の諱をとって「神野太神宮」と称しました。
後に、菅原道眞公が太宰府左遷の際に、この地の紅梅に目を留められ、それをご覧になるため船の艫綱(ともづな)を手繰り即席の席にしたということです。その由縁より、「綱敷(つなしき)」の名が興りました。
この時、道眞公は従者である白江氏にこの地に留まるように伝えました。
その後、梅塚と称し道眞公を祀ったということです。(この梅塚が「梅田」の名の由来となったとう説もあります。)
西暦993年、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、「北野(喜多埜)天神社」と称し、現在に至ります。