由緒:
肥前国養父郡の郡司壬生春成が千栗山へ猟をしにいった際、一羽の白い鳩が飛んできて、弓の先に止まりりました。
この白い鳩は八幡大菩薩の使いだったとされています。
その夜壬生春成は千個の栗を丸いお盆に乗せて枕元に授け、「八幡様を祀れ」という白髪の翁の夢を見ます。
そして翌日、前日と同じように猟に行くと栗が千個も逆さに生えており、栗の木が一夜の間に生い茂っていました。
この時逆さに植わっていたことから千栗と書いて「ちりく」と読むようになったのが名前の由来とされており、また、創建の歴史だと言えるでしょう。
南北朝時代には当社の西に千栗城が築かれたものの、戦国時代に入ると当社まで幾度となく戦に巻き込まれ、社殿が何度も消失することもありました。
ですが、後に領主龍造寺氏、鍋島氏の両名によって社殿の再興や寄進が行われて、今の姿があります。
また、当社は平安時代後期より肥前国一宮を称してきましたが、1602年(慶長7年)、後陽成天皇が下した勅額によって與止日女神社とどちらが肥前国一宮か60年ほど争った時期もありました。
毎年3月15日に行われる粥祭はおかゆさんの通称で親しまれ、粥を使ってその年を占うユニークさが注目を集めています。