由緒:
当社は延暦寺の名僧である金亀和尚が宇佐八幡に千日間にもわたって籠り、その際に受けた神託、「八幡神が豊前国に現れる」を元に造営されたのが始まりとされています。
それ故当社は宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を集め、998年(長徳4年)からは宇佐八幡と同じように33年毎に社殿の造営が行われるようになりました。
中世以降から豊後国一宮を称するようになりましたが、比較的近世まで他にも豊後国一宮を称していた西寒多神社と論争が行われていました。
ちなみに金亀の法統と受け継ぐ者を代々宮師と呼び、それは当社の実質的な支配者と同じ扱いで、国府、特に国司からの崇敬を集めました。
柞原八幡宮 10棟に銅造如来立像、太刀などが国指定の重要文化財になっているだけでなく柞原八幡宮のクスは国指定の天然記念物に、柞原八幡宮絵図や木造の坐像などが大分県指定有形文化財として登録されており、見どころも満載です。
戦国時代には領主であった宗麟の法号で知られる大友義鎮がキリシタン大名であったことから排撃を受け衰退して行きました。
ですが江戸時代に入って歴代府内藩主の手厚い保護を受け、今に至ります。