由緒:
712年(和銅5年)小さな祠として創建されたのが始まりとされています。
後の1028年(長元元年)、下総国の城主平忠常が謀反を起こしたため、源氏の棟梁源満仲(多田満仲)の子、また、甲斐国守を勤める源頼信が常追討の綸旨を賜りました。
しかし安房・上総・下総の三カ国を制圧していた平忠常相手では多勢に無勢なため、源頼信は大いに悩みました。
その際見つけたのが「野久稲荷大明神」で、野久=箭弓(矢弓)、つまりは武門の守護神であると奮い立ち、
怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納して戦勝祈願を行いました。
すると、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲が現れ、それはまるで敵を射るかのように飛んで行きました。
それを見た源頼信は神の御加護に違いないと敵軍に攻め入り、三日三晩に渡る激戦の後、頼信軍が勝利を収めました。
帰陣した源頼信は野久稲荷に戦勝報告を行い、この勝利はご神威・ご神徳によるものだとして、社殿の建替えを寄進し、以降野久稲荷は箭弓稲荷と号せられるようになりました。
本来は弓矢に縁のある神社ですが、現在では社名の読みから野球に携わる人にも人気で、
バットやベースをモチーフとした絵馬やお守りなど、ユニークなもので溢れています。