由緒:
社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅により、
御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現 東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に
日本武尊を建部大神として祀ったのが創建とされています。
御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、
遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されまましたが、「日本書紀」によると、
父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました。
これが即ち建部の起源です。
のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座いたしました。
遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、
現在は建部神社が残っております。
天平勝宝7年(755年)には、大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られました。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「近江国栗太郡 建部神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、
近江国の一宮として崇敬されていました。
源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、
後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となることとなりました。
明治4年(1871年)近代社格制度において「建部神社」として県社に列格され、同18年に官幣中社、同33年に官幣大社となりました。
戦後の昭和23年(1948年)には神社本庁の別表神社となり、社名を「建部大社」といたしました。
なお、昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用されました。