由緒:
伊奢沙別命は、笥飯大神・御食津大神とも呼ばれ、二千年以上前に境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承されております。
古くから北陸道総鎮守と仰がれ、航海安全や水産漁業、産業発展と衣食住の平穏に信仰を集め、鎮座されております。
仲哀天皇は即位後、当宮で国家の安泰を祈願し、神功皇后は天皇の勅命により御妹玉妃命と武内宿禰命を従えて参拝されました。
文武天皇の頃、当宮を修営して仲哀天皇・神功皇后を合祀されて本宮とし、
後に日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉妃命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称することとなりました。
明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により氣比神宮と改められました。
中古より越前國一宮と定められ、明治28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなります。
元亀元年4月大神司一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、大激戦となりましたが、
48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至ってしまいました。
慶長19年に社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進され、この時の本殿は流れ造りを代表するもので
明治39年国宝に指定されました。
ですが、戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに焼失してしまい、終戦後も再建は行われましたが、
昭和57年「昭和の大造営」に着手することになります。
以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、
平成の御代に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新いたしました。
更に国家管理時代の社務所として長い間使用していた敦賀区裁判所の庁舎も、老朽化により已むなく解体、
平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成いたしました。