由緒:
日本3大祭のひとつである祇園祭(祇園会)で有名な八坂神社、通称「祇園さん」。シンボルである朱塗りの切妻造の西楼門は西駕籠門とも呼ばれ親しまれています。神紋は左三つ巴、五瓜に唐花紋。四神相応の地とされる京都で、八坂神社はその東に位置し龍が棲むといわれ、京都五社巡りの内のひとつにもなっています。
元の祭神は祇園精舎の守護神で疫病を司る牛頭天王で、祇園天神や祇園天王とも呼ばれ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来を本地仏とし、素戔嗚尊(すさのをのみこと)と習合したといわれています。牛頭天王、素戔嗚尊(すさのをのみこと)への信仰を祇園信仰といい、京都祇園の八坂神社は全国の八坂神社や弥栄神社、祇園神社、素盞嗚神社(素戔嗚神社)、感神社などの本社になります。
慶応4年、明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」になるまでは祇園神社、感神院祇園社、また祇園祭(祇園会)も祇園御霊会(御霊会)と呼ばれていました。
本殿 中御座の素戔嗚尊(すさのをのみこと)、東御座に櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、西御座に八柱御子神(やはしらのみこがみ/素戔嗚尊の8人の子供の総称)である八島篠見神(やしまじぬみのかみ)、五十猛神(いたけるのかみ)、大屋比売神(おおやひめのかみ)、抓津比売神(つまつひめのかみ)、大年神(おおとしのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大屋毘古神(おおやびこのかみ)、須勢理毘売命(すせりびめのみこと)を主祭神に、東御座の神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)・佐美良比売命(さみらひめのみこと)、そして西御座の稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)を配神とした13座が祀られています。
ご利益は厄除け・病気平癒・商売繁盛・試験合格・良縁成就・商売繁昌など多岐にわたり、初詣に訪れる人は例年正月三が日で約100万人以上といわれ、京都では伏見稲荷に次ぐ人気で観光地としても有名です。
創祀は諸説あり、斉明天皇2年の頃(656年)、高麗の使節であった伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に祀ったことが始まりとする説や貞観18年(876年)南都の僧 円如が播磨国広峯の牛頭天王を勧請し、祇園社附近である八坂郷に祀ったことが始まりともされています。
高麗の使節であった伊利之(いりし)は渡来人・八坂造(やさかのみやつこ)の祖で、新撰姓氏禄に記されている狛国人・之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)と同一と考えられています。
天長6年(829年)に紀百継(きのももつぐ)が山城国愛宕郡八坂郷丘一処を神の祭祀の地としたことから感神院が始まり、紀百継は男子のない八坂造家の娘を妻に迎え、その職を継承します。後裔の行円は永保元年(1074年)に感神院執行となり、明治維新による世襲制の廃止まで、その職を子孫代々引き継ぎます。
元慶元年(877年)に疫病が流行し、占うと東南の神の祟りとされ、各神社で奉幣が行われるも一向に治まらず、更に占うと東山の小祠の祟りとわかり、祇園社が勅使を送り祈ると疫病が収まったため、これが発展の契機となりました。陽成天皇から広大な神領地を寄進され、藤原基経が感神院の精舎を建立し観慶寺(別名 祇園寺)と称します。その境内にあった天神堂が八坂神社の前身ではないかと言われています。
摂社に蘇民将来を祭神とした疫神社、素戔嗚尊の荒御魂を祭神とした悪王子社、冠者殿社。
末社には北向蛭子社、 大神宮、美御前社、大国主社、玉光稲荷社、日吉社、刃物神社、厳島社、 太田社、大年社、十社、五社。御旅所(境外社)に四条御旅所 、三条御供社、大政所御旅所旧跡。
財福、芸能、美貌の神としての信仰のある多岐理毘売命(たぎりびめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする美御前社は京都の舞妓さんをはじめ、女性に人気のある神社です。