由緒:
尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神である天火明命を祀ったのが起源と考えられています。
尾張氏は当社を中心に開拓を進め、後に一族の名が国名になり、日本武尊の妃として宮簀媛を出すなど繁栄いたしました。
平安時代の頃からは、尾張国一宮と称されるようになりました。
当社について、阿仏尼の『十六夜日記』に「一の宮といふ社を過ぐる」と記述があります。
また、同市内の大神神社も尾張国一宮を称しております。
戦国時代、のちに森氏に仕えた関成政は、織田信長から正倉院の名香蘭奢待の破片を拝領し、当社に奉納致しました。
昭和40年、御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営され、真清田の御神徳を象徴しております。
又末社としては、境内に神明社、天神社、犬飼社、愛鷹社、愛宕社、厳島社、八龍神社、秋葉社、須佐之男社、
稲荷社、三八稲荷社、神水舎井館(彌都波能賣大神齋)等があります。
御本殿の向かって左には社務所、その北には昭和43年秋に竣功した神楽殿並斎館があり、諸祭事、諸儀式が行われています。
平成5年には境内裏山に別宮三明神社を御造営し、荒魂を御奉齋しています。
当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。
流域は常に文化の形成に大きな役割を果たし、一宮の発展にも木曽川の恩恵がありました。
今でこそ繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は木曽川の灌漑用水による水田地帯として、
清く澄んだ水によって水田を形成していたため、『真清田(ますみだ)』と名付けられたといわれています。
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。
古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっております。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、
尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になり、現在も重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として朱印領333石を奉りました。
また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)に当社の大修理を行う等、崇敬を篤くいたしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受け、
戦後は一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市だけです。
古い御社殿は特有の尾張造りの形式を備えた神社でしたが、昭和20年戦災で焼失してしまいました。
その後、昭和32年に本殿以下諸社殿、同36年に楼門が再興され、
現在は正面参道の楼門を入って正面に拝殿(切妻造)、祭文殿(切妻造)、渡殿(切妻造)、本殿(流造)を連接した
新しい真清田造りの華麗雄大な御社殿となっております。
本殿・渡殿は平成18年に文化庁より国の登録有形文化財に指定されました。
※祭文殿、拝殿は現在登録申請中