由緒:
山麓に里宮(豊川市一宮町)、本宮山(豊川市・岡崎市・新城市の境、海抜789m)の山頂に奥宮(豊川市上長山町)があり、
古代は奥宮のみ存在したが、文武天皇の時代(大宝年間)に里宮を建立したといわれています。
「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されてました。
その際、但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、
社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、
この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとあります。
里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(明応九年)は次のように伝えております。
文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として 「煙巌山」に使わされました。
公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、
天皇の病も平癒することが出来ました。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされました。
公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなりました。
その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じましたが、公宣卿はこれを追って山を下り、
山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を 取り上げて、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのでありました。
古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥三年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観十八年には従四位上に至りました。
こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのであります。
その後江戸時代に入ってからも周辺藩主の信奉篤く、文政十年に正一位が授けられ、
また明治四年には国幣小社筆頭に列せられました。