由緒:
神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山に賀茂別雷命が御降臨になり、天武天皇7年(678年)、現在の社殿の基が造営されました。
『山城国風土記』逸文では、建玉依日売命が産んだ神の子が当社の祭神、賀茂別雷命で、建玉依日売命の兄、建玉依比古命の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したとの記述があります。
古くより朝廷からの崇敬を受けてきた神社で平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされました。
弘仁元年(810年)嵯峨天皇は御杖代として皇女有智子内親王を斎王と定めたのをはじまりとして、以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕しました。
『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されています。
また明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められました。
広く庶民の信仰を集め、国家の重大時には必ず奉幣、御祈願があったといいます。
賀茂御祖神社(下鴨神社)と共に賀茂神社(賀茂社)と総称されます。