由緒:
当社は第11代天皇垂仁天皇18年の勧請に始まります。
用明天皇2年秋(587年)聖徳太子15歳の時に仏教問題で物部守屋と争われた際、玉作岡に陣をしき、この社に祈願して「われに勝を与えるなら、これに枝葉を生せしめよ」と、栗の白木の箸を地土に差し込まれました。
すると翌日になってこの箸に枝が伸び、若芽が生えており、戦は大勝に終わったといいます。以来玉作岡を栗岡と呼ぶようになったと伝えられ、この社も天皇によってさらに増改築されて土下の崇敬を集め、いつとはなしに稲生五幸大明神といわれるようになりました。
後醍醐天皇の御代の建武の戦には大和国に御神体を奉遷されましたが、後に栗岡山に祭られて250年を経て、天正4年に戦乱で焼失しました。
後に豊臣秀頼は大坂城の守議神として祭祀。1615年大坂城落城に際して再度戦火により焼失。
徳川家では地元民と協力して覚永8年(1631年)さらに社殿を興し、他の神社の三倍余の境内と社領五百石を寄進して崇敬したといわれます
1863年(文久3年)、「新町焼」といわれる大火で焼失、明治4年になって五度の建立となりましたが大戦でまたも焼失、昭和29年、現在の社殿が建立されました。
明治3年郷社に列格、昭和3年11月府杜となりました。